愛宕の森と緑を守る会
愛宕山古墳・城ノ辻石棺
愛宕山の東峰(かつては、その山上を城ノ辻と称していた)の、現在「コアマンションマリナヒルズ室見」が建てられている場所に、愛宕山古墳がありました。しかし、古墳が存在していた場所は大型マンション建設のために20mほど掘り下げられてしまいました。開発業者は福岡市教育委員会埋蔵文化財課との間で、現地調査の後に移設・復原の保存措置を合意していましたが履行されず、遺跡(巨石群)がどうなったかは現在不明です。埋蔵文化財センターの担当者も現状不明と確認しています。行方不明前に学術調査がおこなわれ(1989年7月)、その結果は愛宕山古墳調査委員会による調査報告書(1991年)として残されています。下の画像のうち、現在の写真以外の前半のものは、この報告書からの引用です。
愛宕山古墳は横穴式石室を有する墳丘径約10mほどの小さな円墳でした。築造時期は6世紀後半と推定されていますが、確定しうる証拠に乏しく、周囲に多数存在する、いわゆるサワラ古墳群との関係も定かではありません。調査報告では、立地からして通常の古墳群とは異なる性格の被葬者の墓ではなかったかと推測していますが、年代確定を始め、今後の調査・研究に課題が残されていると記しています。昨今、急速な進歩を遂げた年代測定法などを活用すればもっと多くのことが解ったであろうと思われますが、何も残されていない今となっては、それも不可能となってしまいました。
なお、元姪浜中学校長で郷土史家であった西島弘氏によれば(西島, 1992)、この愛宕山古墳の他に、東峰の山頂に箱式石棺があり、昭和初期におこなわれた奥國(園?)輝恭らの発掘によって太刀一振(直刀)が発見されたとのことです。ということは、なぜか前述の愛宕山古墳調査報告書(1991)には全く触れられていないのですが、この東峰には古墳と石棺の2つが存在していた(!!)ということになります。実際に、西島氏は1977年(昭和52年)に石棺と古墳との両方を写真撮影し、記録として残しています(西島, 1992, pp. 43〜44, 47〜52)。ただ、両者の位置関係に関する記述では東峰山頂の箱式石棺の南20m下に古墳があったとされているのですが、この点については疑問が残ります。調査報告書(1991)による位置図では、古墳は東峰山頂の約10m西側に位置しているからです。なお、山頂の箱式石棺から出土した太刀は福岡市に提出するということで学校の先生に渡されたが、その後行方不明となり、詳細は不明だと記されています。
愛宕山古墳は1989年の調査時点では石室の石組みが崩壊していましたが、少なくとも1977年時点には原型を留めていたことが西島氏によって確認されていて、その内部はピンクがかった赤褐色に塗られていて、いわゆる装飾古墳というものですが、線刻や壁画は描かれておらず、時代的にはより古い初期の装飾古墳だと推定されています。このほかに、西島氏は近くに荒廃した30体ほどの地蔵石仏が存在していたとも記しています。このことは地元の年配の方の話でも、そのような石仏群があって、それらはどこに行ってしまったか知りたいとのことでした。
また、古くは、1879年(明治12年)の「福岡縣地理全誌(早良郡之部)」に、「古墳」として「愛宕神社ノ東北。岩窟辨天ノ山ノ東ノ山上ヲ城ノ辻ト云。文化九年壬申正月二十三日此所ヨリ石棺ヲ掘得タリ。蓋ヲ開テ見レハ骸骨アリテ、兠(注1)鎧五尺餘ノ太刀。三尺餘ノ劔小刀十五口。矢根五本長一尺餘ナルアリ。欵識等(注2)ハナシ如何ナル人ナリヤ知レス。元ノ如ク石槨ヲ埋ミ標石ヲ建テ。石面ニ武徳神ノ三字鐫レリ(注3)。」と記されています(文化9年=1812年)。この内容からすると、これは愛宕山古墳のことではなく、峰の山頂にあった、後世に造られた箱式の石棺に関しての記述であると考えられます。このことは、昭和初期に太刀が石棺から見つかったということとも整合的です(それまで埋蔵物が残されていたのには驚かされます!!)。この文章の元となる古文書があるはずですが、今のところ、調査中です。私たちは、この石棺が存在していたことをきちんと残す意図もあって、この石棺を「城ノ辻石棺」と命名したいと思います。
いずれにしろ、愛宕山の過去を知る貴重な文化財が開発によって跡形もなく消失してしまった今日となっては、私たちには過去を知る手立てが一片も残されておらず、残念でなりません。また、文化財保護の次善の策としての移設・復原措置すら無視するような「開発」のあり方、開発者の姿勢は今後決して許してはならないと思います。
(注) 旧字が用いられているため、漢字表記が異なっている個所があります。
(注1) 兠は兜の旧字
(注2) 欵の偏の上部は「ヒ」ではなくて「上」。欵識 (かんし)=金属等に刻まれた文字
(注3) 鐫の字には山冠 (ヤマカンムリ) あり。鐫る=彫る
(画像をクリックすると拡大表示され、説明文全文が見られます)
タイトルは「愛宕山古墳」。報告書は福岡市立中央図書館でも閲覧可能。この報告書の1ページ目に開発業者と埋蔵文化財課との間で「移設・復原の保存措置」を合意したことが明記されている。
愛宕山の東に延びる東峰の尾根筋の東端にある小山(城ノ辻)の肩に古墳が造られていた。
石室の入口は右側(南側)にある。奥の白い塀は調査のために囲ったもの。
愛宕山の東に延びる東峰(城ノ辻)の尾根筋に古墳はあった。調査のために設置された白い塀に囲われた土地の中央部のあたり。
古墳跡の現状。右上(1枚前)の遠景写真とほぼ同じ方向より撮ったもの。正面の大型マンションが建っている場所の6〜7階のあたりに古墳は存在した。
愛宕山古墳石室のスケッチ(実測図)。
古墳の位置は右手(東)の大型マンション中央部の6〜7階部分のあたり。マンション敷地は、左手(西)の崖とほぼ同じ高さの尾根筋を20mほど削り取って造成された。
左手山頂部から東に向かう東峰(城ノ辻)の尾根筋に古墳はあった。
現在の地図の上に古墳の位置をマークしてみると....。
現在の航空写真の上に古墳の位置をマークしてみると.....。
郷土史家の西島弘氏がとりまとめた「姪の浜を中心とした郷土史誌」。この中で、愛宕山東峰の石棺と古墳についての調査結果を1977年頃に撮影した写真を添えて記載している。1992年発行。以降の画像は、この本からとったもの。
東峰(城ノ辻)の山頂にあった箱形石棺。1977年西島氏撮影。今回、存在を明示するために「城ノ辻石棺」と命名。西島氏は、この石棺の20m南に古墳があったと記述しているが、地図で見る限り、愛宕山古墳は山頂から10m西。
西島氏が1977-8年に撮影した愛宕山古墳の石室。奥正面。撮影時には古墳は未だ崩れていなかった。
西島氏が1977-8年に撮影した撮影した愛宕山古墳の石室。入口左側の側面。
西島氏が1992-3年に撮影した愛宕山古墳の上蓋巨石。上蓋全体が茶桃色に彩色されている。線刻も絵画もないので、初期の装飾古墳と思われる。
古墳の近くにあった30数体の石仏。1977年頃までは放置されたまま存在していた。これらの石仏群もどうなったか、現在不明。
福岡縣地理全誌(巻之一百三十三、早良郡之部)の表紙。臼井浅夫編 1879年(明治12年)発行。