愛宕の森と緑を守る会
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岩窟弁財天社
いわやべんざいてんしゃ。愛宕山の北麓、博多湾に面した崖(市立愛宕小学校の裏手、愛宕四丁目公民館の脇)に天然の岩窟蓋があり、その岩窟の中に弁財天が祭られている。古くは海上安寧を願って宝鏡が祀られていたが、江戸時代に至り、弁財天が海の守り神として信仰の対象とされてきた。ここは元々は波打ち際だった。この近辺(愛宕四丁目のあたり)は1960年代頃までは弁天町という町名だった(その名残として現在、愛宕大橋左岸の角にある福岡市のポンプ場の名前が「弁天町ポンプ場」となっている)。
貝原益軒の「筑前國續風土記」では「岩窟辨才天」を紹介し、その東側(向かって左手)に「針の耳」と名付けられた小さな洞があり、低くて狭いが西から北に曲がって通じていたと記されている。その小さな洞は、今は見当たらない。地元の方の話では、子供の頃にはまだ存在していて、通り抜けて遊んでいたそうだ。また、弁財天の洞窟の入口は現在はコンクリートに囲われて広くなっているが、以前は岩がもっと張り出していて、幅も狭く、洞窟の中は剥き出しの岩で、奥まで入るにはちょっと勇気がいったとのこと。現在のような形になったのは、愛宕山を削って2001年10月に開通した都市高速道路の建設にあたって道路公社が整備した結果。岩窟の壁は奥の方まで全てコンクリートが吹きつけられて、今では砂岩の壁を見ることはできない。道路公社は隣りの公民館(公会堂)までも造ってくれたそうだ。
弁財天は元々はヒンズー教の河の女神サラスヴァティが伝来してきたもので、武器等を持つ八臂(8本の腕)の像であったものが鎌倉時代以降、琵琶を弾く2本の腕の姿も現れ、学芸の神様とされてきた。因みに、サラスヴァティは4臂で、多くの場合、数珠、ヴェーダ(聖典)を持ち、ヴィーナ(楽器)を抱えている。弁才天が弁財天になったのは七福神のひとりとして御利益が強調された江戸時代以降といわれる。神仏習合で弁財天は、須佐之男命の剣から生まれたという宗像三女神のひとり、市杵嶋姫とされ、併せて祀られている(縁起の碑参照)。
(画像をクリックすると拡大表示され、説明文全文が見れます)
左手の建物は愛宕4丁目町内会の会館。
壁面はコンクリートで巻かれており、元々の砂岩の壁は見られない。
すぐ後ろは愛宕山の急な崖。
筑前國續風土記には「辨才天」と書かれている。腕が2本の弁天は海の守り神、芸術の神としての弁財天なのだろう。
岩窟弁財天の効能(?)が書かれている。
洞の一番奥に祀られている。
卵は白蛇の好物ということだろうか。
岩窟内はすべてコンクリートで吹き付けられ、天然窟の砂岩の壁を見ることはできない。都市高速道路建設にともなって、道路公社が入口の拡張ともども「整備」した。
筑前國續風土記に記されている岩窟弁財天社
以前は、東側(向かって左側)に通り抜けることができる小さな洞「針の耳」があったが、今は無い。さらに奥を探しても見当たらない。
これが弁財天社東脇の洞「針の耳」を塞いだ石積みだろうか。この近辺には他に石積みはなく、単なる擁壁ではなさそうだ。
国土地理院地形図(1967-72)。現・愛宕4丁目の近辺。
弁天町の名が今でも残っている唯一の場所が「弁天町ポンプ場」。愛宕大橋の西側のたもとにある。
これは日本の三大弁天の一つ、滋賀県竹生島宝厳寺の宇賀弁才天。この時代には武器以外のものも持つようになり、宝珠と鍵に替わっている。残りの2つ、厳島神社の弁才天は八臂、江の島の妙音弁財天(裸弁財天)は二臂。ただし江の島には八臂の弁財天も祭られている。
弁財天の元を辿るとヒンドゥー教の河の神、サラスヴァティである。楽器はヴィーナ。武器等を持つ八臂(8本の腕)の姿をしているといわれるが、どの絵・像でもすべて4本。???
水(河)の神を表す構図になっている。ヒンズー教の女神はすべて美女。日本に伝来する間に、時代を反映して武器を持つ八臂の神へと変化したのだろう。
神主さんが祝詞をあげ、地元の方々が多く参加していました。
九州大学の太鼓サークル「華響」が駆けつけて、奉納太鼓を披露しました。