愛宕の森と緑を守る会
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鷲尾愛宕神社
景行天皇2年(72年)に伊耶那岐尊・天忍穂耳尊を祀ったのが鷲尾神社(鷲尾権現)の始まりと伝えられていますが、その頃の日本はまだ弥生時代で、この年代はあくまで伝承。1634年(寛永11年)に伊耶那美尊・火産霊神を祀る愛宕権現を福岡藩2代藩主の黒田忠之がこの地に京都の愛宕神社を勘請し、その後、1901年(明治34年)に両社が合併されて(鷲尾)愛宕神社となりました。「日本三大愛宕の一つ」と称していますが、残り2つの愛宕神社(東京、京都の総本社)ではそのような表現は使用していません。新年には多くの参拝者で賑わいます。境内からの博多湾・市内眺望、夜景眺望は絶好です。
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本殿に向かう石段の曲がり角にある木。神木との説明文が添えられている。「小賀玉の木」あるいは「招霊木」と記され、神事に用いられる(通常はサカキが用いられているが、これは実は代用品)。
本殿の北側(向かって左側)にある宇賀神社。宇賀神社は中世以降に存在し、その由来は諸説あって定かではない。
茅の輪くぐりは茅輪神事(ちのわしんじ)とも言い、その昔、素盞鳴尊(すさのおのみこと)が蘇民将来(そみんしょうらい)という貧しい男に厚いもてなしで泊めてもらったことに感謝し、後日、悪病が流行った時に茅で輪を作って腰に下げれば病に罹らないと蘇民将来に教えたことが始まりだとのことです。その後、時代がたつにつれ茅の輪が大きくなり、今日の姿に。 神社に向かって一礼後、左足で跨いでくぐり、左に廻った後に一礼して、今度は右足でくぐり、右に一廻りして一礼し、さらに左足でくぐって左に一廻り(計三廻り)、一礼後、また左足から跨いで神前に。二拝二拍手一拝してお詣りするのが正式な作法だそうです。
愛宕神社の火まつりは毎年12月5日に執り行われます。英彦山から来た修験者が修験道の作法で護摩を焚き、その中に願い事を書いた護摩木を皆で放り込み、願い事の成就を祈りました。その後は火渡りの神事です。火勢が衰えた護摩壇をならして道を作り、その上を修験者を先頭に一般の参加者が裸足になって渡っていきます。インターナショナルスクールの生徒たちもこの火渡りにこわごわ挑戦していました。
御潮井(おしおい)は浜の砂を清め祓ったもの。災難除けの力を持つとのことで、家に持ち帰ります。これを御潮井取り(あるいは御潮井汲み)と称します。博多祇園山笠の際に筥崎宮で行われる御潮井取りは有名。愛宕神社の御潮井の、このお値段は霊験あらたかの証明?
2018年の節分は2月3日。本殿前で撒かれているのはお菓子や殻つきピーナッツ。大豆でないのは、衛生面での配慮とか。多くの人がこっちこっちと手をあげる。
社務所の屋根の上からも豆まき。大変ですね、ご苦労様。
愛宕神社本殿の南下に京都伏見稲荷から勧請された稲荷が祭られています。その両サイドに構えているのが駒狐。向かって右側の狐は霊徳を顕す玉、左側の狐がこの画像ですが、咥えているのは鍵。昔の鍵はこのような形をしていたのですね。 ちなみに、花火で掛けられる「玉屋ぁ〜、鍵屋ぁ〜」は、駒狐の咥えているものから来ているとか。
福岡市の明治通り、室見川脇の愛宕交差点のすぐ西側に愛宕神社へ向かう女坂があり、その入口の角に「タートルパーク」という名が付いた小さな有料駐車場があります。実はこの駐車場の場所は、かつて小さな池があったところです。この池にはたくさんのカメが住んでいて、放生池あるいは神池、ごうづ池と言われていました。この神聖な愛宕神社の池が、何らかの事情があったのか、あるいは経済優先だったのか、潰されてしまった理由は定かではありませんが、今では昔のままの石の柵と駐車場名だけが名残を留めているに過ぎません。
明治通りの一本北側を通る唐津街道に面して参道の入口がある。石段の参道は大正時代に植えられたソメイヨシノによって桜のトンネルになっている。観音密寺を経て鷲尾愛宕神社に至る。